2012/5/14アメリカ合衆国におけるキャリア開発の視察団に参加して(3)
<孫とクリントン―アメリカ人のこころの面白さ>
トリノオリンピックに、スピードスケートのメンタルコーチとして参加したときのことです。私は日本電産サンキョーのスケート部に所属しています。トリノオリンピックでは、世界記録を持つ加藤条治選手を始め、メダルを狙える選手が複数いましたので、ずいぶんと期待してトリノに乗り込みました。結果はだれもメダルがとれず、惨敗しました。そのとき男子500メートルで金メダルをとったのが、アメリカのジョーイ・チーク選手でした。ジョーイ・チークはオリンピックの直前に500メートルでめきめき力をつけてきていましたが、私たちの意識ではノーマークに近い選手でした。そのジョーイがふたを開けたら金メダル。彼は1000メートルでも、シャーニー・デイビスと死闘を演じ、銀メダル。アメリカ人の本番での強さを思い知らされました。なぜアメリカ人は本番に強いのか?という疑問をずっと抱き続けました。(もちろん、アメリカ選手のなかにも、本番で力を発揮できない選手もいます。しかし、日本人と比較すると、本番での集中力と闘争心には差があるように思います)そのとき、疑問をとくきっかけをつくってくれたのが、私の孫です。
私の孫は、アメリカ生まれで、10歳のころまでアメリカで暮らしていました。外見は完全な日本人ですが、こころの仕組みは、アメリカ人的です。どんなときでも、自分はすばらしいと思っています。ぼくと話をしていても、自分がどんなに素晴らしいことをしているかについて話をしてくれます。(最近は思春期に入って、少し日本人的になったのか、控え目になっていますが)わたしはそんな孫が大好きなのですが、ときおり、彼女のポジティブ・シンキングぶりに、「ちょっと行き過ぎではないか」と思う事もあります。アメリカの学校を見学したとき、自分のすばらしさや自分なりの意見をみんなの前で発表することが奨励されていました。アメリカ人の本番での強さは、自分の素晴らしさを表現し、それを信じているこころの仕組みにあるのではないか、と思うようになりました。(もちろん、すべてのアメリカ人が、自分のすばらしさを信じているわけではありません。しかし、スポーツでも、ビジネスでも、一流の領域にいる人たちは、平均すれば、日本人よりもポジティブに自分のすばらしさを表現します)オリンピックの晴れ舞台で、自分の素晴らしさを信じている選手と、自分のいたらなさに反省しきりの選手では、力の出方が違うと思います。
ここでやっとクリントンです。アーカンソー州の州都リトルロックに、クリントン記念館があります。日本生産性本部のキャリア視察団も、その記念館に行きました。たいへん立派な建物です、3階までは、クリントン大統領の業績を示す写真、映像、記念となる物が展示してあります。驚いたことに、一番上の階は、ペントハウスで、クリントン夫妻の住まいになっています。
自分の業績を誇らしげに展示してある建物の上に居を定めるという考え方にはとても興味を持ちました。私がクリントンのように出世して、大きな業績をあげても、記念館を生前につくるという発想がうまれるだろうか、さらに、その階上に住もうと思うだろうかと、考えました。答は、私の場合、「ノー」でした。たとえば、西郷隆盛が故郷に帰って、私学校の校庭に、西郷記念館を建てて、その上で住んでいる姿を想像することは難しいです。一般的な日本人には、悪いことをしているわけではないと頭ではわかりますが、何か抵抗があるのではないでしょうか。クリントンのような発想に対してどう思うかについて、日米比較調査をすれば、とても興味深い結果が得られると思います。
ジョーイ・チーク、私の孫、クリントンに共通するところは、自分の素晴らしさを誇らしげに表現することです。ジョーイ・チークは金メダルをとったあと、賞金全額を世界の飢えに苦しむ子どもたちのために寄付をし、スケート選手から政治家への道を歩み始めました。すごいと思いますし、孫もそのような生き方をしてほしいです。。