2012/11/24「『感じが悪い人』はなぜ感じが悪いのか?」について(3)


 怖いことと、感じが悪いことは同じではありません。私の大学時代は、学園紛争のまっ最中でした。私が学んでいた大学に全共闘(この名前をご存知の方は少なくなりました。暴力的な手段に訴えて、革命を起こそうと考えていた学生運動家の集団です)が、当時ゲバ棒と呼ばれた角材や鉄パイプをもって殴り込みをしてきたことがありました。私は政治的な活動にまったく興味はありませんでした。しかし暴力をふるう人たちに大学を占拠されてはいけないと思って、大学の正門で、ほかの大勢の学生と腕を組んで阻止しようしたら、彼らは角材や鉄パイプを振り回して、情け容赦なく襲いかかってきました。たちまち、私たち蹴散らされ、ほうほうの体で逃げました。そのときの恐ろしさを忘れることができません。しかし、逃げている時に、暴力をふるった全共闘の学生たちに恐怖を感じても、感じの悪さは感じませんでした。

おそらく暴力団員が恐喝にきたら、恐怖を感じても、感じの悪さは感じないでしょう。(そんな実験も、体験もしたくありませんが)。反対に、駅などで、暴力団まがいの言動で、駅員を怒鳴りつけている人をみると、感じの悪さを感じても、怖さをあまり感じません。「暴力的言動」を、暴力団員や全共闘の人たちがすると、恐怖を呼び起こし、勤め人風や、学生風の人がすると感じが悪くなるのはなぜでしょうか?期待される社会的な役割や行動規範に違いがあるからだと思います。ここにも行動そのものが、ある特定の感情を引き起こすのではなく、社会的コンテクストによって影響を受けているのです。

 堅気には堅気の社会的なコンテクストを期待されます。そんな期待のなかで、勤め人が不慣れな任侠映画のような言動をすれば、社会的なコンテクストとコミュニケーションのスタイルに食い違いが起き、感じの悪さが生まれます。(ときには滑稽さも)

このブログを読む方々はいずれも堅気な方ばかりです。もし、何らかのトラブルに巻き込まれ、腹がたったときに、暴力団員風な言動をすれば、相手は震え上がるどころか、あなたを感じが悪いと感じるだけで、トラブル解決には何の効果もないでしょう。私たちは生活をしていれば、クレームをつけなくてはいけないときもありますが、あくまで紳士的に、こちらの言い分をきちんと伝え、よりよい解決を図りたいものです。