2017/6/26
スルーカ(りょく)を発揮すべき時
口うるさい人と一緒に仕事をしたり、生活したりすることはなかなか辛いものがあります。私は、若い頃、細かなところまでいちいち注意する人の隣で仕事をしたことがあります。その方の人柄が良かったので、なんとか我慢はできましたが、「もう少し、僕のやりたいようにさせてほしい」と、密かに、ため息をついたことが再三あります。その人の言っていることの大半を聞き流したことで、つまりスルー力を発揮したので、人間関係が壊れずに済みました。もし私が「僕のやりたいようにやらせてほしい」といちいち反論していたら、「生意気な新人だ」と思われていたに違いありません。
職場で気に入らないことがあると、すぐに文句を言ったり、ふてくされた態度をとったりする人もいます。そういう人は、他の人なら気にならないような、上司や同僚の欠点を見つけて、陰で不平不満を言ったり、上司や同僚を批判したりして、ドンドン人間関係を悪くするリスクがあります。いわゆる不平分子と上司からにらまれるかもしれません。言っている内容は正しいように聞こえるのですが、なんとなくみんなその人を持て余している感じになります。
しかし、上司のパワハラに耐えているうちに、うつ病になったり、自殺する人もいますので、スルー力もほどほどに、ということでしょうか。
スルー力で乗り切るか、断固として抗議して状況の改善を図るかの基準は人それぞれで、パーソナリティの一部と考えてもよいくらいです。ブライアン・リトル博士が、彼の著書「ハーバートの心理学講義」で述べている分類に従えば、スルー力を行使するかしないかの基準は、社会的動機から形成されたパーソナリティ部分だと思われます。従って、スルー力は、生育環境や社会的経験に関係していると考えられます。いささか極端ですが、正義の味方となって世の中の不正や不公平と戦うのか、不平分子として煙たがられるのかの境目は曖昧模糊としています。
アリストテレスは中庸を重んじた哲学者ですが、アリストテレス流に言えば、「スルーすべき時に、スルーしないのは、あるいはスルーしてはいけない時にスルーするのは、愚かなこと」になるでしょう。
あくまで、私個人の基準ですが、「スルーした方が目標達成に近づくならばスルーするし、見て見ぬふりをすることなく、自分の意見を言うことで目標に近づくならばスルーしない」ことを判断基準にしています。