2020/3/31
<緊急寄稿>~子育て中の皆様へ
パンデミックの日々の家庭教育について
コロナウィルス感染が拡大し、不安な日々をお過ごしのことと思います。お子様にあっては、学校、幼稚園、学習塾なども、停止されたままの状態が続いています。第二次世界大戦後最大の世界的危機に遭遇し、保護者の方々も、お子様も、どのように日々を過ごせばよいのかについてお悩みのことと存じます。
メンタルコーチとして、危機的状況下の過ごし方、家庭教育のあり方について提案をさせていただきたいと願い、筆を執りました。ご一読いただき、皆様のお役に立つことができれば、とてもうれしいです。
【保護者の皆様は、危機的な状況下のもとで、どのような心構えで過ごせばよいのか】
イスラエルの医療社会学者、アーロン・アントノフスキーは、ナチスの強制収容所やニューヨークのスラム街のような過酷な環境でも、心身ともに健康に過ごせる人達がどのような心理的な特徴を持っているかについて調査し、「首尾一貫感覚」※注1という心理の仕組みが重要であることを発見しました。彼の考えは健康生成説を呼ばれ、公衆衛生学や心理学にも大きな影響を与えています。正体不明のコロナウィルスが猛威を振るうなかで、私たちがどのように過ごしていけばよいかの指針となる考えだと思います。アントノフスキーの考えに従い、私たちが今、どのように過ごせばよいのかについて説明をしましょう。
1.現在の危機的な状況をよく観察し、自分なりの意見を持つこと。
人間は周囲で起きていることが理解できず、混乱した状態のままに過ごしていると不安になり、強いストレスを受けます。しかし、何がどのように起きているのかを明確に理解すると気持ちが落ち着きます。コロナウィルス感染はいつ終息できるのかは不明ですし、経済がどれくらい悪化するのかも不明です。それでも根拠のないうわさに惑わされ、一喜一憂するよりは、冷静に状況を観察し、自分なりに納得できる考えを持つ方が気持ちは落ち着きます。エグゼクティブ・コーチングの体験から言えることは、優秀な経営者は楽観的過ぎることもなく、悲観的過ぎることもなく、ほどよく楽観的、ほどよく悲観的に状況を把握しようとします。人の感情は感染しますので、大人の皆さまが動揺するとお子様まで気持ちが不安定になります。お子様から現状に関する質問があれば、「私は~と考えている」と正直にお答えいただくことがよい効果をもたらすと思います。
2.今、自分でできることに集中すること。
苦しい、不安な状況のなかで「自分は何ができるだろう」と考え、自分でやれることに集中してください。また自分をサポートしてくれる人達と連携をとってください。自分ひとりが苦しんでいるのではなく、信頼できる人達と苦しさを共有できるとコロナウィルスと戦う勇気が生まれます。自分はコロナウィルスの犠牲者だと考えますと、どんどん気持ちがなえて行動ができなくなります。コロナウィルスを克服するためにできることを一つ一つ実践し、やれることを積み上げていくと、気持ちに余裕が生まれます。
3.パンデミック(世界的大流行)の日々を生きることに意味をみつけること
人々の行動に制限がかかり経済が停滞しますと、私たちの生活は苦しくなります。人によっては失業の苦しみを味わったり、倒産に追い込まれたりします。選手たちは夏の甲子園が中止になるかもしれないと不安に感じてクラブ活動から切り離され、一人でこの状況を乗り越えなくてはなりません。何一つよいことが起こらない状況のもとでは、自分の生きる意味を見つける必要があります。オーストリアの精神科医であったヴィクトール・フランクルは、意味を見つけるにはどうすればよいかについて、もっともすぐれた業績を残しました。彼自身はナチスの強制収容所に入れられ、悲惨な体験をした人です。フランクルは、人間は何もよいことがない悲惨な状況にあっても人間として立派な態度をとることに価値があると考えました。人の真価は、苦しい状況になると判明するとよく言われていますが、フランクルがナチスの収容所で体験したことも同じでした。私たち一人ひとりが、毅然とした態度でこの困難に立ち向かっていくことは、とても意味があることだと思います。
私は、上記の3つのうち、1つでもしっかりできれば、コロナウィルスに負けないメンタルが作れると思っています。ぜひ、このなかの一つにチャレンジしてください。
【家庭教育のあり方】
教育や文化には、父性的原理と母性的原理※注6があると河合隼雄先生は繰り返し述べられています。父性的原理で教育を行えば、子どもの能力や行動を評価し、子どもの成長を促進するために厳しく鍛えることになります。母性的原理であれば、子どもの気持ちを理解し、やさしく支援して子どもの成長をサポートします。教育の場では、この二つの原理のバランスが重要です。バランスのとり方は、学校教育の場では教師と子どもの性格、心構え、経験、価値観、信念などによって変わります。ご家庭によってもバランスは違います。バランスとは機械的に2つの原理を50%、50%にして教育するという意味ではありません。しかし、現在のような不安で先行きが見えない状況では、お子様も強いストレスを受けていますので、母性的原理を今までよりも少し多目にして、子どもと接していただきたいです。その塩梅(あんばい)は、繰り返しになりますがご家庭によって違います。お子様の話に耳を傾け、苦しみながらも成長しようとする姿勢を褒めていただきたいです。同時に、保護者の目から見てお子様が人間として美しくない行動をしているときは、「親として子がそのような行動をとっているのを観ることは悲しいし、つらい。だからやめてほしい」とお伝えください。
【よき人間として成長するために】
今、お子様は学校に行く機会も少なく、みんなで練習に取り組みことができない日々を送っておられると思います。一人で過ごす時間が増えているとき、トライしていただきたいことがあります。よい習慣を身に着けていただきたいのです。たくさんのことを習慣化しようと取り組むと失敗します。よき人間として大きく成長できる習慣を一つ身に着けていただきたいです。身に着ける習慣は、成長に役立つものであればなんでもよいのです。例えば早寝早起きをする、食べ物の好き嫌いをなくす、でもよいし、毎晩寝る前にストレッチをするでも、整理整頓でもOKです。ご家族で考えて決めていただくことも賛成です。決まりますと、次のようなステップで習慣化※注8をお願いします。ご紹介するステップは昨年(2019年)8月、シカゴで開かれたアメリカ心理学会で発表されたものをもとに、松下が作成しました。繰り返しになりますが、習慣化を目指す習慣は一つに絞ってください。
ステップ1.何を習慣化するかを、できるだけ短く表現する。できれば15字以内で文章にしておくこと。
ステップ2.まず開始する。最初からものすごく頑張らなくてよい。だんだんと努力や熱心さをあげていくこと。
ステップ3.習慣化のための時間を長くすると挫折する。無理のない範囲で時間設定すること。
ステップ4.うまくいっているかどうかのチェックを、1週間に1回実施すること。いつも同じポイントをチェックすること。チェックポイントを変えると、どれくらい習慣化できたのかわからなくなる。
ステップ5.チェックするとき、習慣化ができているか、できていないか、だけをチェックすること。習慣化は、要するに「やると決めたことをやり通す」という行為なので、やり通しているかどうかだけが問題である。できかなった理由などを考慮すると習慣化はできない。
通常、行動を変えるとき、他の人のサポートを受けたり、チェックしてもらったりしますが、習慣化は長期にわたり、コツコツやり続けることが必要で、他の人の手を煩わせることはできません。習慣化ができたかどうかの目安は、習慣となった行動をしないと気持ちが悪いという感覚が生まれたときです。一つのことを習慣化してよい結果が生まれると、さらに別のよい習慣を身に着けようという意欲が高まります。コロナウィルスで、自宅で過ごすことが多くなったこの時期は、習慣化に挑戦する絶好の機会です。
<キーワード集>
注1.首尾一貫感覚(SOC:sense of coherence):アーロン・アントノフスキー著、山崎喜比古・吉井清子訳(2001)『健康の謎を解く』有信堂 p21
環境のさまざまな変化や、次々と発生する問題に振り回されることなく、①環境の変化や問題の原因やプロセスやこれからの方向性を説明でき、②それらに対して対処する方法や能力を自分が持っていると心から信じることができ、③変化や問題に対処するために、時間とエネルギーを使うことは、自分の人生にとって有意義だと実感している、心の状態を首尾一貫感覚とよぶ。
注2.把握可能感(comprehensibility) :アーロン・アントノフスキー著、山崎喜比古・吉井清子訳(2001)『健康の謎を解く』有信堂 p21
人が内的環境および外的環境からの刺激に直面したとき、その刺激をどの程度認知的に理解できるものとして捉えているかということである。言い換えれば、混沌として無秩序で無作為で偶発的で説明のできない雑音としてでなく、むしろ秩序だった一貫性のある構造化された明瞭な情報としてどの程度知覚しているかということである。
注3.処理可能感(manageability): アーロン・アントノフスキー著、山崎喜比古・吉井清子訳(2001)『健康の謎を解く』有信堂p22
人に降りそそぐ刺激にみあう十分な資源を自分が自由に使えると感じている程度と定義する。「自分が自由に使える」とは、自分の統御(コントロール)下にある資源や、その人が頼れると感じて信頼している正当な他者(legitimate others) - によって統御されている資源のことであると言ってよかろう。高い処理可能感をもっているかぎり、自分が出来事の犠牲になっているとは感じないだろうし、人生は自分の不公平だとも思わないであろう。人生には困難なことが起こるものだが、それが起こったとしても、そういう人は、対処することができ、いつまでも悲嘆にくれたりしないだろう。
注4.有意味感(meaningfulness) :アーロン・アントノフスキー著、山崎喜比古・吉井清子訳(2001)『健康の謎を解く』有信堂p23
人が人生を意味があると感じている程度、つまり、生きていることによって生じる問題や要求の、少なくともいくつかは、エネルギーを投入するに値し、かかわる価値があり、ないほうがずっとよいと思う重荷というより歓迎すべき挑戦であると感じている程度のことである。これは、有意味感の高い人が、愛する者の死に直面したり、深刻な手術を受けることになったり、解雇されたりすることをうれしく思うという意味ではない。これらの不幸な経験が課されたときにも、その人はその挑戦をすすんで受けとめ、それに意味を見出そうと決心し、尊厳をもってそれに打ち勝つために最善を尽くすだろうということである。
注5.態度価値:
フランクル、ヴィクトール著 霜山徳爾訳(1952=1961)『死と愛』みすず書房51~54頁
われわれの患者の一人が、自分の働きは何の高い価値を持っていないから、自分の生命は何の意味もないと主張することをしばしば経験するのである。われわれは彼に、人間がどんな職業生活をしており、何をしているかは結局どうでもよいことで、本質的なことはむしろいかに彼が働いているかということであり、また彼に与えられた役を実際によく果たしているかどうかである、ということを何よりもまず指摘してやらねばならないのである。したがって行動半径がどのくらい大きいかということが重要なのではなくて、人間がその使命圏をどれほどみたしているかということが重要なのである。職業と家庭が与える具体的な使命を実際に果たしている一人の単純な人間は、その「ささやかな」生活にもかかわらず、数百万の人々の運命をペンの一走りで決定できても、その決定において良心なき「偉大な」政治家よりも偉大であり高貴なのである。そしてまた先入見なく直載に判断するものは、かかる「ささやかな」生活が、たとえば、多くの患者の生命にあずかりながらも手術に際してその責任を十分に意識しない外科医の生活よりも、一層高いものであると評価するであろう。
創造ないし活動の中に実現化せしめられる「創造的価値」と呼ばるべき価値の他にさらに体験のなかに実現化されるような「体験価値」が存する。世界の受容に際して、たとえば自然や芸術の美への帰依においてそれは実現化されるのである。それが人間の生命に与えうる豊かな意味は過小評価されてはならない。人間の実存における一定の瞬間の現実的な意味が、活動によってでなくて、単なる体験の中に充たされうることを疑うものは試みに次のことを考えてみるとよい。一人の音楽を愛する人間がコンサートホールに坐り、彼の愛する交響楽の最も印象的な調子が耳にまさにひびきわたり、その結果彼は最も純粋な美に接したときに体験されるあの畏怖にも似た感にうたれていたと想像しよう。かかる瞬間にこの人間に、一体彼の生命は意味をもっているかと問うならば、彼はかかる恍惚とした瞬間を体験するだけでもすでに生きるに値すると答えるであろう。なぜならばたとえ一瞬間が問題であったとしても・・・すでに一瞬の大きさにおいて一生涯の大きさが計られうるからである。ちょうど山脈に高さが谷のところの高さでいわれるのではなくて専ら最高峰の高さにおいて計られるように、人生においてもその意味性に関しては最高点が決定的なのであり、そして僅かの一瞬が後から考えれば全生涯に意味を与えるということでもありうるのである。高山に登り、アルプスの夕焼けを体験し、背筋が寒くなるほどの自然の極めて美しいすばらしさに打たれた人間に、・・・かかる体験の後に彼の生命がまったく無意味になりうるかどうかを聞いてみるとよい。
しかし我々の見解によれば可能な価値の第三のカテゴリーがさらに存するのである。なぜならば生命は、たとえば創造的に実り豊かでもなく、また体験において豊かでなくても、根本的にはまだなお有意味でありうるからである。即ち人間が彼の生命の制限に対していかなる態度をとるかということに中に実現化されるような第三の重要な価値群が存するのである。かくして一見したところ現実に創造価値ならびに体験価値に極めて貧しい存在ですらも、なお価値を実現するべき最後のしかも偉大な機会をもっているのである。この価値をわれわれは態度価値とよびたいと思う。なぜならば人間が変えることのできない運命に対していかなる態度をとるか、ということがこの場合問題であるからである。従ってかかる価値を実現化する可能性は一人の人間が運命に対して、それを受け取るよりほか仕方がないような場面において生じるのである。即ちいかに彼がしれに耐え、いかに彼がいわば彼の十字架として自ら担うか、ということが問題なのである。たとえば苦悩の中における勇気、没落や失敗においてもなお示す品位、等の如きである。われわれが態度価値を可能な価値のカテゴリーの領域の中へひきいれると、人間の実存は本来決して現実に無意味になりえないことが明らかになるのである。即ち人間の生命はその意味を「極限まで」保持しているんである。従って人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少なくとも態度価値に対して、責任を担っているのである。人間は意識存在をもっている限り、責任性存在をもっているのである。価値を実現化するという彼の義務は人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである。価値実現の完成がたとえどんなに制限されようとも、態度価値を実現化することは可能でありつづける。かくして人間存在は意識性存在と責任性存在である、というわれわれの出発点である命題の道徳的な妥当も明らかになるのである。
注6.父性的原理、母性的原理:
河合隼雄(2012) 『中空構造日本の深層』中央公論新社
p209
ここで、家族の中で父と母とどちらが権力をもっているか、という観点ではなく、父性と母性との根元的な在り方に基づいて、父性的原理と母性的原理のどちらが日本の家において優勢であるかを考えてみよう。この点については今まで他にしばしば論じてきたので、あまり繰り返したくないが、筆者の主張は、日本の家が強力な母性原理によって支えられている、ということである。母性の原理とは、端的に言えば、すべてのものを平等に包含することで、そこでは個性ということを犠牲にしてしても、全体の平衡状態の維持に努力が払われるのである。これに対して、父性原理は善悪や、脳力の有無などの分割に厳しい規範をもち、それには基づいて個々人を区別し鍛えてゆく機能が強い。教育場面における二つの玄理の差は、日本においては小学校ではすべての人を進級させてゆくのに対して、ヨーロッパでは落第や飛び級が多いことに如実に示されている。
注7.勇気:アリストテレス著、朴一功訳(2002)『二コマコス倫理学』京都大学出版会
かくして、憶病な人も、向こう見ずな人も、勇気ある人もみな同じものにかかわっているが、その同じものに対する態度が異なっているのである。すなわち、憶病な人や向こう見ずな人は、超過したり不足したりしているが、勇気ある人は、しかるべき仕方で中庸の態度を保持しているからである。そして向こう見ずな人たちは性急であり、危険な事態が起こる以前には危険なことを望んでいても、いざその事態に直面すれば、たちまちひるんでしまうけれども、勇気ある人は、逆に、実際の行動の場面では勇敢であり、それ以前には落ち着いて静かにしているのである。
したがって、すでに述べたように、勇気とは、先に言われたような状況において、自信を抱かせるものと恐怖を与えるものとにかかわる中庸なのであり、そして中庸としての勇気が選んだり耐えたりするのは、そのようなことが美しいか、あるいはそのようにしないことが醜いか、そのどちらかの理由によるのである。だが、貧困や恋心、あるいは何か苦しいことから逃れるために死ぬというのは、勇気ある人のなすべきことではなく、むしろ憶病な人のすることである。すなわち、つらいことを避けるのは、意志の弱さであり、そのような人が死を選びそれに耐えるのは、その行為が美しいからではなくて、ただ別の悪いものから逃れるためにすぎないのである。
注8.習慣化:2019年8月。シカゴにおけるアメリカ心理学会での、習慣化の発表。